古賀市ってどんなとこ?

古賀の見ゴロ

コスモス広場

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CREATE SPACE MIRACOのSHRIMIバーガーに使っている野菜は、コスモス広場で買えます。

コスモス広場の周りには、楽しめるものがいっぱい!
大きなグラウンドと遊歩道がある「古賀グリーンパーク」は、走り回れる大きな公園です。


国史跡 船原古墳

 金銅装歩揺付飾金具

船原古墳の1号土坑から出土した金銅製歩揺付飾金具(こんどうせいほようつきかざりかなぐ)は、発見時は壊れて元の形を保っていませんでしたが、その後、X線CTスキャナーデータなど最新技術を駆使して元に復元されています。この金銅製歩揺付飾金具は、六角形の台座とその台座から立ち上がる大小7本の立柱があります。

船原古墳の出土品は複数の立柱と台座を組み合わせ、複雑な形をしていて、このような構造のものはこれまでに例がないそうです。

国史跡に指定された船原古墳

(平成30年4月13日撮影)

1号土坑からは、馬具、武器、武具、農耕具など総数500点以上もの大量の遺物が発見されています。墳丘外の土坑に、豪華で貴重な馬具類などをまとめて埋めた国内初の事例であったことから、平成28年10月3日に国の史跡に指定されています。

発掘調査中の船原古墳

(平成28年1月撮影)

船原(ふなばる)古墳は、古賀市谷山と小山田の境の丘陵上にある前方後円墳です。6世紀末から7世紀初頭の築造で、現在は船原古墳と7基の土坑群、船原2号墳が残されています。

平成24年度の発掘調査の際に古墳の南側で大量の遺物を埋納した1号土坑が発見されました。

花鶴海岸 美しい古賀の海

花鶴 花鶴海岸

(令和4年6月9日撮影)

古賀を代表する景勝地の一つ。

花鶴が浜公園 夏の到来を告げる ハマボウ

(令和4年6月30日撮影)

7月中旬から8月上旬ごろにかけて、花鶴川河口周辺で鮮やかな黄色の花の群生を見ることができます。この花が塩水と淡水が入り混じる汽水域付近に群生するハマボウです。この一帯に約600本ほど群生しているといわれます。

古賀海岸

(令和4年7月29日撮影) 江戸時代に植林された松林を抜けると、その先に広がるの美しい砂浜の古賀海岸

薬王寺 白洲神社 薬王寺川

古賀市の東部にある薬王寺地区。

西鉄「薬王寺」バス停からほど近いところ、集落の中に鎮座する白鬚神社。

創建ははっきりしませんが、元の社は現在地の南の山上にあって,長元9年(1036)7月、山上に異変があったことなどが伝えられています。現在の神殿は、宝永7年(1710)のものといわれ、その棟札には「白賀大明神」とあります。

薬王寺 蔵のある風景

(令和3年9月23日撮影)

山あいには薬王寺温泉があり、昔から「薬の里」とも呼ばれていたそうです。この地区には薬王寺温泉の由来となる「鬼王と京王兄弟」の民話が伝えられていて、集落を流れる薬王寺川のほとりに建つ蔵は、まるで「日本昔ばなし」のような風景です。

筵内 菜の花道

黄色と深紅のジュウタン

(令和4年3月24日撮影)

菜の花畑の黄色いジュウタンと特設ステージの深紅のジュウタンのコラボ。

筵内の「なの花の道」は、2001年(平成13年)4月に区役員、筵内ふる里創生委員会関係者、筵内区民などの一致団結によって取り組まれた「菜の花畑構想」が原点。「昔、筵内は、なたね油の産地であり、菜の花が咲く頃は、一面黄色いジュウタンを敷きつめたような、美しい光景が広がっていた」、「もう一度、あの美しいふる里の光景を、取り戻したい」という熱い思いが原動力になっているそうです。

清龍寺 薬師堂 春

(令和4年3月25日撮影)

西鉄薦野バス停の先、清滝橋から登り詰めた不動山の山腹にある「清瀧寺」(せいりゅうじ)。

神亀元年(724)に薦野氏の祖丹治峯廷が行基を招いて建立したとも伝えられていますが、はっきりしません。かつては、十七の僧坊(僧が住む建物)があった天台宗の大寺院だったそうです。

清瀧寺は、もとは薬師如来が本尊であったといわれますが、その薬師堂は山門の右手にある鳥居を潜り、階段を上った先にあります。

境内には四季折々の自然があふれていて、今は桜の季節を迎えています。

舞の里 千鳥ヶ池

(令和4年8月4日・令和3年1月9日撮影)

千鳥ケ池公園内にある自然池(湧水池)の千鳥ケ池。

千鳥姫伝説をはじめ池にまつわる多くの伝説や民話があります。

天然記念物のツクシオオカヤツリグサの自生地でもあり、渡り鳥が飛来する千鳥ケ池は、四季折々の自然を楽しむことができます。

美明 皇后神社

(令和4年4月3日撮影)

船原古墳から国宝級ともいわれる馬具類が出土して、注目を浴びていますが、古賀市の発掘調査の出発点は鹿部山遺跡ともいわれます。

鹿部山遺跡は、明治31年(1898)に皇石宮の社殿拡張の際に露出した甕棺から細型銅剣・細型銅戈が発見されていて、古くから知られた遺跡でした。

この鹿部山周辺に「花鶴丘団地」が造成されることになり、昭和47年(1972)に発掘調査が行われました。

これが古賀市内での本格的調査の始まりともいわれています。

鹿部山は、元は三つの峯を持つ山でしたが、花鶴丘団地の造成で東の峯と中の峯が削られてなくなり、皇石宮のある西の峯が残されています。

古賀神社

駅東 古賀神社の細石(さざれいし)鳥居

(令和4年9月27日撮影)

古賀神社は、浦口神社(旧鹿部村浦口)、皇石神社(旧花鶴)、貴布祢神社(旧鹿部村植松)、日吉神社(旧古賀村字後田)の四社が合祀された神社です。

永年堆積してできた岩石の細石(さざれいし)で造られた鳥居で、「君が代」に歌われている「さざれいし」は、この石を指しているといわれます。

 駅東 古賀神社のハート形手水鉢

(令和3年9月8日撮影)

花鶴の旧皇石神社(現在の花鶴皇石公園)に奉納されていた手水鉢です。

今から約230年程前に起きた「天明の大飢饉」の翌年になる天明9年(1789)に、二度と飢饉が起こらないことを願って造られたそうです。

ハートの形は、神聖な植物とされる葵(あおい)の葉を形にしたとされ、周りには子宝に恵まれることを願う「盃状穴」(はいじょうあな)と呼ばれる小さな穴が彫られています。